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神戸地方裁判所 昭和57年(わ)662号 判決

主文

被告人両名をそれぞれ懲役六月に処する。

被告人両名に対し、この裁判の確定した日から一年間右各刑の執行を猶予する。

訴訟費用はその二分の一ずつを各被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯等)〈省略〉

(罪となるべき事実)〈省略〉

(証拠の標目)〈省略〉

(被告人両名の各暴行及び傷害認定の理由)

一〈省略〉

二第一暴行について

前掲証拠によれば、以下の各事実が認められる。

1  被害者である内藤丈雄は、証人として大要以下のような供述、即ち、「自分の左前に立つていた被告人松井は、所携の丸めたパンフレットで、自分の椅子のエプロン(メモ台を指す)をポンポンと叩きながら『そんなことではわからへんやないか』と繰り返して叫んだ。それから『もつと説明しろ』と叫びながら自分の左顎の先付近を右の丸めたパンフレットで突ついた。突つかれたという感じである。そのパンフレットは紙のことなのでちよつと突かれてグニャッと曲がる程度のものだつた。自分が痛いと感じるほどのものではなかつた。このように同被告人に丸めたパンフレットで最初突つかれ、手で払つたあともさらに突つかれた。二度三度と同じことがあつた」との趣旨の供述をしているところ、右供述は、同人が同被告人から丸めたパンフレットで突かれた際の状況を事態の経過に即し具体的に述べるものであつて、その信用性を疑わせる点は特段見当らない。

なお、弁護人は、右パンフレットは硬い紙質の四つ折りのものであり、その材質形状を考えると、同被告人がこれを丸めた状態で内藤の顎付近を突いたとするならば、同人が公判廷で供述するように右パンフレットがグニャッと曲がることはありえず、もし同被告人が右パンフレットがグニャッと曲がる程度に強く同人の顎付近を突いたとするならば、同人はその突かれた部位に傷を負うはずであるところ、同人はそのような傷を負つていないことからみると、同被告人に丸めたパンフレットで突かれたという同人の右供述は事実を誇大に述べるものであつて信用性に乏しい旨主張しており、確かに右パンフレットの紙質及び形状からみて、同被告人がその一方の端の上から下まで全部を他方の端に巻き込み完全な円筒状にして同人の顎付近を突いたとするならば、よほどの力をもつてしない限り、右パンフレットが途中で折れ曲がるということは容易には考えられないところである。しかし、被告人両名は、いずれも公判廷において、被告人松井がパンフレットを握つた際のパンフレットの形状につき、「同被告人が手に握つている部分は一方の端が他方の端に巻き込むような丸め方であつたが、右パンフレットの先端部分では一方の端が他方の端と辛うじて接するか若干隙間ができる程度であつた」との趣旨の供述をしているのであつて、このような円錐形状に丸めたパンフレットの広がつた底部を同人の顎付近に突きつけたとすればその先端部分の一部が同人の顎部に触れることにより若干曲がるということは十分あり得ることを認められるのである。他方、右内藤は、丸めたパンフレットのどの部分がどのように曲つたかの点は供述しておらず、また、同人にとつて自己の顎付近は死角となつており視野に入らないものであることからすると、同人の前記供述は、右のパンフレットの先端部分がどのような形状で同人の顎付近に触れたかを明確に視認したうえでのものとは考えられず、むしろ、当時の緊張し、あるいは動揺する心理状況の下で同被告人が突き出した右パンフレットが同人の顎付近に当たり一部折れ曲つた際の感触を「グニャッ」という表現で供述したものと考え得るのであつて、「グニャッ」という表現が適切であるかどうかはともかくとして、内藤の前記供述を目して経験していない虚偽架空の事実を述べたとかことさら事実を誇大に述べたとかの評価をすることは当を得ていないものというべきである。

2  被告人松井の右行為の目撃者である森澤武行は、証人として、「被告人松井は、『わからんのか、どあほ』と言いながら、丸めたパンフレットを内藤の喉元に突きつけ、同人は体を横にしてこれを横に避けたり、手で払いのける格好をしていた」との趣旨の供述を、同じく目撃者である野口貞明は、証人として、「被告人両名のうちのどちらかが丸めたパンフレット様のものを内藤の目の前や顎の付近まで突き出し、そのため同人はのけぞるような姿勢になつた」との趣旨の供述をそれぞれしている。右各供述は、右森澤及び野口において、いずれも被告人松井の突き出したパンフレットが内藤の顎係近に当つたことは直接には目撃をしていないものの、同人が同被告人から突き出される右パンフレットを避けようとして、体を横にしたり、手で払いのけたり、のけぞったりする動作をしていたことを示すものであるとともに、内藤が同被告人から突き出された丸めたパンフレットを最初手で払つたという内藤の前記供述とも符合するものであり、同被告人が丸めたパンフレットを同人の顔面ないし顎付近に当てようとして突き出していた事実を推認させるものである。

3  なお、被告人松井が右パンフレットを突き出した回数及びこれを内藤の顎付近に触れさせた回数について考えるに、前者については内藤が公判廷において、前記のとおり同被告人から右パンフレットで二、三度突かれた旨供述していることに加えて、前認定のとおり、森澤及び野口において内藤が同被告人から突き出される右パンフレットを避けようとして体を横にしたり、手で払いのけたり、のけぞったりするという複数の動作を目撃していることからすれば、二、三回と認定でき、また後者については内藤の前記供述からみて、少なくとも一回はその事実があつたと認定できる。

4  なお、被告人樫木は、公判廷及び検察官調書において、被告人松井の第一暴行を目撃していない旨同被告人の主張を裏付ける供述を行つているけれども、公判供述においては、「被告人松井は所携のパンフレットを丸めて内藤の机を二、三回叩いた」としながら検察官調書においては右の事実をも否定しており、その供述に一貫性がないことなどからみて、前記内藤、森澤、野口の各供述と対比し十分な信用性を措き難いところである。

以上の諸点を総合して判断すると、被告人松井は、所携の円錐状に丸めたパンフレットを単に内藤の顔面近くに突きつけるにとどまらず、前認定のとおり、これを同人の顔付近に向け二、三回突き出し、そのうち少くとも一回右パンフレットの先端部分を同人の顎付近に触れさせたものと認定するのが相当である。

三第二暴行について

前記内藤は、証人として、第二暴行による被害状況につき、大要、「被告人松井は、両手で自分の着座している椅子のエプロンの両端を持つて右椅子を一四、五センチメートルないし二〇センチメートル持ち上げ、その為自分は後ろへのけぞつた。同被告人は右椅子を下にドンと落とした。これが二回あつた」との趣旨の供述しているところ、右暴行の目撃者である宮田繁生は、証人として「ダンダンと音がして振り向いたとき、エプロン机の横に立つていた相手の男(被告人松井を指す)は、内藤が腰をかけている椅子のエプロンを揺すつていた。同人が揺すられているのを見たのは一回だが、ダンダンという音は連続的に何回かあつた」との趣旨の供述をし、さらに検察官調書においては、右公判供述では記憶がない旨の答えをしていた同被告人による右椅子の揺さぶり方と内藤の揺れ方について、「同被告人は右椅子のエプロン机を両手で持つて机と椅子を上下に何回か揺さぶつており、内藤の体は椅子に座つたままの体勢で前後に揺れていた」旨供述をし、同じく右暴行の目撃者である前記証人森澤は、公判延において、大要、「被告人樫木(同人の検察官調書における供述では被告人松井)は、内藤の椅子のエプロンを両手でもつて二回にわたり心もち持ち上げて落としたため、同人の体はちよつと左右に揺れた」旨供述し、同じく右暴行の目撃者である前記証人野口は、「被告人のどちらかが内藤の机をガチャガチャと上下に動かした」旨供述している。ところで、右内藤の供述中椅子を持ち上げられた程度状態に関する部分は、右宮田、森澤及び野口の各供述と対比し事実を過大に述べるものであつて直ちに採り得ないところであるが、この点を除き、同人の供述は、被告人松井が右椅子のメモ台を持ち上げては落とすことにより右椅子に着座している内藤の身体を揺すつたという大筋において、右宮田らの供述とも概ね符合しており、前認定の限度においては十分信用に値するものと認めることができる。

なお、弁護人は、被告人松井が右椅子を揺さぶつたとしても、それは、論争、抗議の場ではえてしてあることで、多少の感情の昂ぶりを示すものではあつても刑法上の暴行と目せられるべきではない旨主張するけれども右暴行は、被告人松井において判示のとおり、受付事務に従事していた内藤に対し融資申込手続の説明を求めるにとどまらず、「ぼけ」、「どあほ」など一方的に罵声、怒声を浴びせかけ、かつ、激昂した態度で所携のパンフレットを丸めて同人の椅子のメモ台を数回にわたつて叩いたうえこれを同人に二、三回突き出し、うち少なくとも一回同人の顎付近にその先端を触れさせるという暴行をなした後引き続いて、同人に加えられたものであり、右の経緯をも併せ考えると、右の第二暴行は、同人に肉体的、心理的な影響を与えるものであつて、公務執行妨害罪にいう暴行に該当するものというべきである。

四第三暴行及び傷害について

前掲証拠によると、以下の各事実が認められる。

1  内藤は、証人として大要、「受付事務の応援に来ている県企画調整課副課長の森川が県民サロン室中央付近で応対客一四、五人に取り囲まれその代表格の者との議論が激しくなつて室内は騒然とした雰囲気となり、このままでは受付の応対が難かしいと思い、野田金融課長を目で捜したところ、自分の右斜め後方に見えたので、同課長に当日の受付事務の打ち切りを進言しようと考え、被告人らに『ちよつと待つて下さい。課長にちよつと連絡することがありますので』と言つて、自分の椅子のテーブル(メモ台を指す)に手をつきこれを支えにしてうつ向き加減で立ち上がりかけたところ、被告人樫木が『どこへ行くんや、逃げるんか』と言つて、どちらかの手で自分の右手首を掴んで、自分の椅子のエプロン(メモ台を指す)とこれと向かい合つて接している同被告人の椅子のエプロンとの境目あたりまで手前に引張り、その為自分は支えにしているつつかい棒となる右腕をはずされて重心を失い右斜め前にのめつた姿勢になり右肘から右斜め前の床に椅子もろとも倒れた」との趣旨の供述をしているところ、右供述内容は、同人の転倒の経過及び状況に関し詳細かつ具体的であつて、不合理な点は見当らない。

2  右暴行の目撃者である前記証人野口は、「内藤が立ち上がり加減の姿勢のとき、被告人松井は手で同人の腕の肘と手首の中間よりやや肘寄り部分をグッと前に引張り、その為同人はメモ台付椅子と一緒に倒れた」との趣旨の供述をしている。もつとも、右供述は、内藤が同被告人から引張られた腕が左右いずれであるかについては記憶していないというものであり、また同被告人が左右いずれの手で内藤を引張つたかについても、尋問の経過において、「どちらの手で引張つたのかはつきり今のところ覚てえていない」とか「両手の腕で引張つたことは間違いない」とか「両手で引張つたと思う」とか「正確に印象づけてどちらで引張つたということは実は頭に残つてない。両手で引張つたということは確かでない。両手とも片手ともはつきりいうことはできない」とかその供述内容を変遷させているのであつて、記憶の曖昧さがみうけられるところである。しかし、野口が右行為を目撃していたのが内藤の右斜め後方の位置であり、また目撃内容も予期していなかつた瞬時の出来事であつたことを考えれば、同人は内藤が被告人松井により腕を引張られるのを目撃したものの内藤の引張られた腕又は同被告人の引張つた腕についてそれが左右どちらの腕であつたかはつきりしないという事態は十分ありうると思われるから、右の供述が不自然不合理であるとすることは相当でない(ちなみに、内藤も前記のとおり、被告人松井から左右どちらの手で引張られたか記憶していないと述べており、また、後記のとおり、特信性の認められる森澤武行の検察官調書における供述においても、被告人松井が左右どちらの腕で内藤の腕を引張つたかははつきりしないとされているのである)。むしろ、右野口の供述は、右のような変遷等は見受けられるものの、同被告人が内藤の腕を引張つたという点に関してはその供述が一貫しているうえ、同人が同被告人に手を引張られて転倒した経緯及び状況に関して、前記内藤供述と符合していることを併せ考慮すると、右野口供述は、前記内藤供述を支えその裏付けとなるものということができる。

3  右暴行の目撃者である前記森澤は、証人として、「内藤は両手をエプロンにつき中腰で立ち上がりかけたとき、被告人樫木が『待たんかい』と声をかけて同人の右手首を握つた。それと同時に『ガチャ』と音がして同人は右肘を下にして右横に倒れた」との趣旨の供述をしているが、同被告人が内藤の右手首を握つたあと手前へ引張つたかどうかに関しては、検察官の主尋問においては、「ちようど立ち上がりかけたときに縞模様の男の人が右手首をどちらかの手かわかりませんが持つて確か引つ張つたんじやないかと思うんですが、右斜め横に倒れました」と、弁護人の反対尋問においては、「まあ握つて普通こう力強く引つ張つたというような記憶はないんですがこれはやつぱり力を加えなければ実際に転ばんと思います」と、検察官の再主尋問においては、「(引張つたかどうかに関して)ちよつと今のところ記憶がないんです」と、裁判長の補充尋問においては「引張るというようなことはなかつたように思われるということはないですか」との問に対して、「まあ推測というあれかもわかりませんがやはり引張らなければこう来るわけがないですからね」と、「実際に引張つたという行動を見てるんですか」との問に対して、「……一瞬の出来事でしたですから」と、「そういう動作見ましたか」との問に対して、「ちよつと今の時点では思い出せません」とそれぞれ供述しているところ、右森澤の供述を全体的にみるならば、同人としては、同被告人が内藤の右手首を引張つた事実を目撃していない旨を明言しているわけではなく、この点については記憶が減退し定かではないことから明確な供述を避けていたものと認められるのである。

ところで、森澤は、検察官調書において、「内藤が一寸腰を上げて両手をエプロンにつき立ち上がろうとしたとき、縞のシャツを着た男(被告人樫木を指す)は対面の席から中腰になり『待たんかい』と言つてどちらかの手で内藤の右手首を掴んで引張つた。同人はその勢いで引張られると同時に右横に椅子もろとも転んだ」旨の供述をしているところ、本件を差戻した控訴審判決が指摘しているように、森澤の「証言は事件発生から約一年三か月ないし二年経過した時点のものであるのに比し、検察官の取調べは事件発生の約一か月半後になされており、森澤自身検察官に対しては当時の記憶どおり正直に述べた旨証言していること」のほか、内藤の転倒ということが森澤にとつて予期せざる一瞬の出来事であり、しかも引張る行為といつても、内藤の供述によると、同人の椅子のメモ台について同人の右手首を掴んで、そのメモ台と向かい合わせに接している同被告人の椅子のメモ台との境あたりまで手前に引張つたという小さな動作であつたというものであることなどからみて、「右の相違は時日の経過に伴う記憶の減退によるものと認められ、検察官調書の供述を信用すべき特別の情況が存する」と考えられ、したがつて、同人の公判供述と検察官調書の記載とでは、後者が当時同人において目撃した内容を物語るものというべきである。そして、右森澤の検察官に対する供述調書の内容は、前述したように内藤の転倒原因につき「同被告人が同人の右手首を掴んで引張り、その勢いで同人が引張られると同時に右横に椅子もろとも転倒した」旨を明確に述べるものであるところ、森澤は内藤の後方約五〇センチメートル(証人としては約五〇ないし六〇センチメートルと供述している)の至近距離の位置から同人の状況を目撃していたものであること、また、森澤の右供述は、証人内藤及び同野口の前記各供述とも符合していることなどに照らし、内藤の転倒の経緯及び状況について十分信用に値するものと認めることができる。

4  さらに、右森澤は、証人として、「内藤の転倒直後同人を抱き起こし、同人の前に立つていた被告人樫木に対して、咄嗟に『お前誰や。倒したじやないか』との言葉を発した」旨供述しており、そのような事実のあつたことは、被告人樫木が公判廷において、「倒れた内藤の傍に寄つてきた二人の県職員から『お前がやつたな、名前を言え』と言われた」旨供述し、また被告人松井も公判廷において、「県職員が内藤の側に来て被告人樫木に対して『お前がやつたやろう』と言つた』旨供述している点などからみて、ほぼ間違いないものと認められる。そして、右発言が内藤の転倒直後その現場で咄嗟に発せられており、その間作為の入り込む余地はないと思われることからすれば、森澤としては、被告人樫木が内藤を引き倒した事実を目撃したればこそそのような発言をなしたものと推認するのが自然であるといわなければならない。

5  ところで、被告人樫木は、公判延において、内藤の手首をつかんで手前に引張つた事実を否定するとともに、内藤が転倒した前後の同人の動きについて、「内藤が『君らとこれ以上話しても無駄や』と言つて椅子のメモ台の両端を両手に広げて押えるようにしてうつむき加減で腰をかけていた右椅子から立ち上がりかけたとき、自分は同人に『どこへ行くねん。座らんかい』と声をかけたところ、同人は後ろをきよろきよろ見て中腰の姿勢から一旦座りかけようとして右後ろを向いたまま前に座つている自分の方へゆつくり倒れてきた」との趣旨の供述をして、同人が転倒した原因は、同人が立ちかけた不自然な姿勢から再度椅子に座りかけようとして自らバランスを失つたがためである旨供述し、また、被告人松井、証人永岡隆仁、同畑井政雄、同田中武の各公判供述も、概ね一致して「内藤は椅子のテーブルの両端に両手をついて、うつ向き加減で立ち上がりかけたところ、被告人らに声をかけられて再び椅子に腰をかけようとしたとき、右斜め前にゆつくりとよろけるようにして倒れた」との内容であつて、被告人樫木の前記供述にそうものである。しかしながら、判示のように、当時、内藤は、室内が騒然とした状態となつたため、本件受付事務の打ち切りを野田課長に進言しようと考えて椅子から立ち上がりかけたのであつて、右の経緯に照らすと、たとえ被告人樫木から「どこへ行くねん。座らんかい」と声をかけられたからといつて、同人が再びもとの椅子に座りかけようとしたとすることは不自然であると言わざるを得ず、さらに右被告人樫木らの供述はすでに見たように証明十分な第一及び第二暴行の事実をも否定するものであること、同被告人らの検察官調書における供述内容は公判廷におけるそれと異なり、内藤が突如転倒したとし、転倒の経緯について何ら触れるものでないこと、証人畑井については内藤の転倒当時県民サロン室フロア中央付近で県職員と口論中であつたことなどをも考慮すると、内藤の転倒原因に関する被告人両名及び前記各証人の供述はいずれも十分な信用性があるとは認め難い。

6  次に、弁護人は、大阪府立大学工学部助教授楠井健作成の鑑定書の鑑定結果及び同人の証人としての供述を援用して、内藤の転倒は同人が自らバランスを崩したことが原因であり、被告人樫木が同人の右手首を引張つた事実はない旨主張するので検討する。

右鑑定書の鑑定事項は、「メモ台付パイプ椅子に座つていた人間が立ち上がろうとしたとき、体は右前方に、椅子は体から離れてその右側に倒れた。この転倒の原因として、次のA、B二つの主張があるが、いずれがより合理的か。A、椅子から立ち上ろうとしている人間の右手首を、他人が前方へ不意に引張つたため。B、椅子から立ち上ろうとしている人間が同時に右後方を見ようとしたとき、体のバランスを失して、みずから倒れた。』というものであつて、転倒した際内藤の体と椅子とが離れていたことを前提としているところ、なるほど被告人両名並びに前記証人田中及び永岡は、いずれも公判廷において、右前提事実と同趣旨の供述をなしているけれども、他方、前記証人内藤、森澤及び野口は、いずれも右内藤は椅子にはさまれたまま倒れた旨供述しているのであつて、右鑑定の前提事実を既定のものとすることには問題があるうえ、かような転倒のケースでは、引張る際の力の入れ工合、方向、引張られる側の反応等の多くの不確定な要素が存在しており、これらの点を捨象した右鑑定結果は、本件における内藤の転倒原因を認定するうえでの適切な資料とはなりえないものというのほかなく、従つて、弁護人の前記主張は採りえないところである。

7  さらに、弁護人は、内藤の転倒の原因について、同人はその着座していたメモ台付椅子が構造上不安定であつたことに加え、下肢に障害を有していたため自らバランスを失したものである旨主張しており、なるほど、内藤はその証言によると脊髄障害のために両足が悪く、身体に障害を有していることが認められるものの、他方、身体障害者の等級には最重度の第一級から最軽度の第七級まであるうち、同人は障害の程度としては軽度な第六級に該当し、かつ、右障害は同人の日常の歩行その他の生活行動には支障となつていないことも同人の証言から認められるところであり、本件において、同人の着座していた椅子に構造上の不安定さがあつたとしても、内藤が椅子のメモ台に両手をついて立ち上がりかけた際、右両足の障害のため自らバランスを失つて転倒したものとは到底認められない。

以上考察したところによれば、判示第三暴行も証拠上明らかであり、またその結果、内藤が判示の傷害を負つた事実も前掲証拠に照らしこれを認めることができる。

よつて、判示事実は、すべてその証明が十分である。

(共謀の成否について)

本件公訴事実は、差戻前の公判における検察官の釈明内容をも考慮すると、被告人両名の各行為につき事前に共謀が存したものとしてその責任を追及する趣旨であると理解されるところ、弁護人は、被告人両名は、もともと別個無関係に、それぞれの用向きのため県民サロン室に来合わせ、それがたまたま一緒になつただけであつて、被告人両名の間の意思の連絡は、本件融資制度の新運用方式での融資手続への質疑、問責、抗議をする点について存しただけであり、共同して内藤に対し暴行を加えようとする意思まで抱いていたのではない旨主張するので、この点について検討することとする。

確かに、本件のように多数人が行政の施策等を不当として抗議する局面においては、その当不当はともかくとして、興奮のあまり相手方に罵声、怒声を浴びせたり、さらにはテーブルを叩くなどの行為に至ることはままあると思われ、この種の行為がすべて暴行罪に該当するものとはいえないことに鑑みると、本件において、互いに面識があるとは認められない被告人両名が、ともに、受付事務に従事する内藤に対して、融資手続の説明を求めたうえ抗議に及び、その間罵声、怒声を浴びせていた段階においては、被告人両名につき暴行の意思があつたとすることには疑問があり、またその後、被告人松井が所携のパンフレットを丸めて同人の着座する椅子のメモ台部分を叩く行為に及んだうえ第一及び第二暴行をなした段階においても、同被告人についてはもとより暴行の意思を肯認できるとはいえ、同樫木もまた右被告人松井の暴行に加担し、共同してこれを行う意思を有していたとすることについては未だ疑問の余地がないとはいえない。

しかしながら、前掲証拠によれば、被告人樫木は同松井の右各暴行を目撃した後、引き続き同被告人の傍らにあつて内藤と対応したまま、同被告人とともにこもごも罵声、怒声を浴びせ、かつ自らもまた同被告人と同様所携の丸めたパンフレットで同人の椅子のメモ台を叩くなどの行為を続け、周囲の騒然たる状況と相まつて、当日午後三時ころ、同人をして右受付事務を打ち切らざるをえないと思うまでの状態に至らせたうえ前記第三暴行を加えたものであり、右の経緯に照らすと、被告人松井による第一及び第二暴行の後、同樫木はこれに触発され、右暴行の結果を認容のうえ、内藤の対応いかんでは右暴行のいわば延長としてさらに同人に暴行を加える意思を抱くにいたり、ここに、同様暴行の犯意を継続していた被告人松井との間に暗黙のうちに意思相通じ暴行ないし公務執行妨害の犯意を共通にしたものと解するのが相当である。

従つて、被告人両名は、自己の行為はもとより他の被告人の行為についても共同正犯(被告人樫木については、いわゆる承継的共同正犯)の責任を負うものといわなければならないから、弁護人の前記主張はこれを採用しない。

(可罰的違法性についての判断)

差戻前の第一審裁判所は、公務執行妨害罪の訴因につき可罰的違法性がないとして被告人両名につき無罪を言い渡しているところ、当裁判所が認定した事実関係は差戻前の第一裁判所のなしたそれと同一ではないが、右訴訟の経過に鑑がみ、本件における被告人両名の行為に関する可罰的違法性の存否につき念のため検討を加えることとする。

まず、被告人両名が本件当日判示県民サロン室に赴いたのは、被告人松井について本件融資制度の新運用方式の内容の説明を聞くためであり、また同樫木については右融資制度にもとづく融資申込をするためであつたことは、すでに判示したとおりであるけれども、被告人両名は、判示のように、内藤の説明の途中から、上司の命により受付事務の任に当つていた一県職員にすぎない同人に対して敵意をあらわにし、こもごも、「ぼけ」、「どあほ」など、融資申込ないしは融資手続の説明の聴取などとはおよそ無関係な罵声、怒声を浴びせ、あるいは、所携の各パンフレットを丸めて同人の椅子のメモ台部分を叩くなどしたうえ同人に対し前認定の各暴行を加えたものであつて、少なくともその時点における被告人らの態度は県側の説明を真撃に聞きあるいは通常許容される程度の抗議をなすというものではなく、被告人らとしては、新運用方式に反対の立場から県職員に一方的に非難攻撃を浴びせその結果受付事務全般の円滑正常な遂行を阻害するもやむを得ないとの心情にあつたものと認めざるを得ないから、被告人らの本件行為の動機、目的を正当なものとして容認する余地はないものといわなければならない。

次に、被告人松井の内藤に対する第一及び第二の各暴行は、それのみを取り出して考察するならば、本件融資手続に反対する同被告人が受付事務を行う同人に対する抗議の際、興奮のあまりやや行き過ぎた行為に出たにすぎず、左程悪質なものでないと解する余地もないではないけれども、他方、そこにいたる経過は判示認定のとおりであつて、被告人両名とも内藤の説明に対する不信、不満の念をあらわにし、こもごも同人に対して、繰り返し、「ぼけ」、「どあほ」などと罵声、怒声を浴びせかけ、かつ、被告人松井において所携のパンフレットを丸めて同人の椅子のメモ台部分を叩いたうえ同人に対して、前記の第一及び第二の各暴行を加えたものであつてみれば、同被告人の右行為を目して社会生活上容認、看過できる程度のものであるなどと言うことは到底できないというほかはなく、さらに、同室内が騒然たる様相を呈したため上司に対し受付事務の打ち切りの進言を決意し、着座していた椅子のメモ部分に手をついて立ち上がりかけた内藤の右手首を掴んで手前に引張るという暴行を加え、同人の右椅子もろとも転倒させ判示の傷害を負わせたという被告人樫木の行為が粗暴悪質なものであることは言うをまたず、従つて、本件各行為の手段方法は、いずれも社会通念上許容できない性質のものというべきである。

さらに、内藤に対して加療約一〇日間を要する右肘部打撲傷の傷害を負わせるとともに、同人の本件受付事務の職務執行を妨害し、ひいては当日における前記県民サロン室での県側の受付事務そのものをも中止せしめた本件の結果を軽視することのできないこともまた明らかである。

以上検討したとおりであつて、被告人両名の各行為は、その動機目的、手段方法、結果のいずれかの点からみても、社会通念上許容しうべき程度に違法性が微弱なものであるとすることは到底できず、傷害罪及び公務執行妨害罪における可罰的違法性を備えていることは明らかである。〈以下、省略〉

(小林充 重村和男 玉置健)

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